飛行機は午前中にシドニー国際空港に着いた。ここは南半球のオーストラリア。日本を離れ初の海外にまだ実感は湧かないが、本当に遠いところまできてしまったのだと思った。
まずは、空港でタクシーを拾い、ここがいいだろうと友人から事前に聞いていたシドニー市内のホテルへ向かうことにした。しかし、分解して輪行袋に収めた自転車と登山用ザック、合わせて50キロにもなる巨大な荷物のため苦労した。次々とタクシーを呼び停めはするのだが、その荷物ではおまえを乗せることはできないと断られてしまう。それでも、必死のアピールでようやく1台の親切なタクシーを捕まえ、なんとか目的のホテルへと向かうことができた。
簡素な旅行者向けの宿、CBプライベートホテルへは30分ほどで着いた。無計画な旅で予約もしていなかったが、運よく1泊22Aドルの部屋が空いていたのでさっそく決めた。妙にスプリングの効いたシングルベッドと、窓際に1脚の椅子が置いてあるだけの薄暗い部屋だが、旅の準備の拠点としては上等だ。成田から、台北、シンガポール、メルボルンを経由した20時間以上の慣れない飛行機の長旅でひどく疲れていたから、ベッドに倒れこむように横になると、そのまま意識が遠のいていった。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 6, 1988)
気が付くと次の朝になっていた。昨日の午後の明るいうちから20時間近くも眠り続けてしまっていたようだ。しかし、そのおかげか気分はわるくはない。
この旅を実現するために、学校を卒業し社会人となってからこれまでに3年間働いて資金を貯めてきた。荷物を積むことのできるキャンピング用の頑丈な自転車をオーダーで作り、復路をオープンとした航空券を購入し、すでに残額は数十万円ほどになっていたが残らずトラベラーズチェックに替えた。全てを賭けるつもりで会社も退職した。この資金がなくなるまで、テント生活ならば少なくとも半年からうまくいけば1年間ほどであろうか、日本に帰るつもりはない。そんな決意でここへ来た。
最初の仕事に取り掛かる。自転車の用意だ。輪行袋から出したパーツをベッド脇の狭いスペースでキャンピング車の形へと組み立てる。飛行機の荷物として預けたため、やはりあちこちに多少のキズやヘコミはついてしまったが、使用上は問題なさそうでホッとした。これで走り出すことができそうだ。それにしても、この部屋の窓から見上げる空の青さは異常なほどに鮮やかだ。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 7, 1988)
出発の準備として、ここシドニーで色々と手に入れなければならないものがある。タオル、下着、洗面などの生活用具一式、飲料水用タンク、ガソリンコンロ用燃料、そして地図などだ。主食としては米を炊くつもりだ。あらかじめ日本で全ての装備をそろえてしまうのはもったいない。できるだけ旅先での調達がベストと信じている。なぜならば、その土地の風土に合った使いやすいものが揃うのと、その後の補充にも心配がないし、旅を終えたあとそれらは貴重な思い出の品になるからだ。なかなかむずかしいことではあるが、身ひとつで旅に出ることが理想と思う。
初めてのシドニーの街で、スーパーマーケット、書店、アウトドアショップなどを回り、目的のものを探して一人彷徨った。スーパーの広さも、書店の雰囲気も、全ての物がまるで日本とは違っていて、新鮮で興味深い。たとえば、ゴミ用のポリ袋のパッケージには擬人化され顔と手足のついたポリ袋のイラストが描かれていたり、食器用洗剤の容器は色使いがとてもおしゃれだ。
ちなみにここではポリ袋のことはプラスティック・バッグ。ファストフードでの持ち帰りのことは、テイクアウトではなくテイクアウェイ。また、マクドナルドで注文の際は日本風にビッグマックと言ってもだめで、これはビクマク!と一息に言うとよく通じる。ここCBプライベートホテルにも今晩で3泊目となった。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 8, 1988)
こうして毎日歩いてみて思うのは、シドニーはとてもきれいな街であり、建物や様々な造形物はセンスよく美しい。また、南半球のためこの季節は日本とは逆に冬なので、過ごしやすいくらいの涼しさである。それにしては、歩く人々の服装は冬のジャンパーを着ていたりTシャツ1枚であったり、一様ではなく個性的だ。そして、都会の真ん中のアスファルトの上であるにもかかわらず、靴もソックスも履かず裸足で歩く人、それも男女の区別なくあちこちで見かけることには本当に驚かされた。
そんなシドニーに来たのだから、やはり有名なポイントも見ておこうと、あの特徴的な形のオペラハウス、シドニー湾にかかるハーバーブリッジ、街を見渡せるシドニータワーの展望台などにも登ってみた。街はそれほど広いわけではなく、これらは歩いて回ることができた。しかし、写真でも見たことのあるそこには日本人観光客があふれ、まるで異国感がなく、観光地として用意されたような風景に感動は薄かった。残念ながらそれはたしかに自分だって同じ日本人観光客ではあるのだけれど……。
そろそろ街には飽きてきた。自転車を走らせてシドニーを離れたい。早くこのオーストラリアの大自然の中へ飛び出したくてたまらなくなってきた。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 9, 1988)
今日もいつもと同じように街を歩いていたのだが、突然に右足の足首のあたりが痛み出した。困ったことにふつうに歩くだけでも苦痛だ。脚を引き摺って歩くことしかできない。
実は数年前にオートバイで車と接触する事故に遭い右足のくるぶしを骨折しているのだが、どうもその古傷が痛み出したような感じがする。ここシドニーを連日のようにあちこちへと歩き回り、その距離はふだんの生活の何倍にもなるだろうから、足を酷使しすぎたのかもしれない。
それとも、これは全くの推理になるのだが、北半球と南半球では地球の自転方向の影響から台風の巻き方や水を流す際の渦の方向が逆向きになるそうだ。ということは、歩いている左右の足への力のかかり方も微妙に違ってきているのではないだろうか。慣れないそんな重力の変化で右足に負担がかかってしまったのかもしれない。
そんな右足首の痛みは夜になっても収まらず、このままでは自転車に乗れそうもない。それでも時間はある。焦らずに出発を延ばしつつ様子を見ることにしよう。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 10, 1988)
まだ足首の痛みはとれず、それでも自然と腹は減ってくるわけで、足を引きずりながらでも街を歩かなければならない。しかし、思ったように歩けないということが、これほどまでに不便でもどかしいものだとは……。
十分な量の米の飯をリーズナブルに食べることができるため、チャイナタウンのフードセンターには毎日のように通っている。屋内の広いスペースにテーブルと椅子が並べられ、その周囲を10軒ほどのセルフサービスの店が囲む形だ。5Aドルほどで、中華風、和風、さまざまな惣菜やライスなどを好きなだけ皿に盛って食べられる。はっきり目の味付けも好みに合い、今では常連となった。
そんなわけで、ここに出店している韓国人のLさん親子と今では顔見知りである。息子のほうは自分と同年代、母親と二人で店をやっていて、たまに彼の姉が来ることもあった。彼らは親子でオーストラリアに渡ってきて、近いうちには永住権をとるのだという。とても申し訳ないことに、ほとんど料金を払うことなく食べさせてもらっている。もちろんそれだけでなく、彼らのあたたかな親切と心遣いが本当に身にしみた。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 11-12, 1988)
歩いていて突然に足が治った。あれほど痛かった右足首が、ジョージストリートの横断歩道を歩いて渡っている最中に、スッと軽くなったのだ。
これは奇跡だろうか。いや、もしかすると居所のわるくなっていた足の筋が、ちょっとした衝撃でもとの位置に戻ったのかもしれない。理由はよくわからないが、3日間どうにもならず引きずっていた痛みが、まるで嘘だったかのように一瞬のうちに治ってしまったことだけは事実だ。そして、それまでの重かった気持ちも軽くなった。とりあえず、これなら行けそうだ。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 13, 1988)
おかげで足の具合も問題ない。明日シドニーを自転車で出発することに決めた。
この日フードセンターのL氏が親切にも今晩自宅に泊まっていってはどうかと招待してくれたのだが、そんな出発の決心のため、ホテルでの準備もあるのでと断ってしまった。少しあとから考えてみれば、自分で勝手に決めたこんな予定などいくらでも変えられたはずなのに、はやる気持ちを抑えられなかった自分の心の余裕のなさが情けない。そんな後悔をした。
シドニーもこれで最後になる。初めての海外という不安。準備のために歩き回ったこと。足の痛みで苦労したこと。そして、お世話になった韓国人のL氏。9日間の滞在ではあったが、これほどまでにこの街を離れがたく、感傷的になってしまうとは思わなかった。
(C.B.Private Hotel, Sydney / July 14, 1988)